或る胎児への回帰

或る胎児への回帰

[バイノーラル録音のためイヤホン推奨]

赤ちゃんになりたい。
胎児への回帰願望は社会生活で摩耗した疲れた人や、自身の能力の壁に絶望し存在を肯定仕切れなくなった人に見られるものだと捉えている。これは一種の逃避願望であると共に、今の自身を放棄してしまいたいということには、自死へと向かう意思との繋がりが見て取れる。「赤ちゃんになりたい。」とは胎内回帰願望、社会生活を放棄し母親の胎内という保護された環境へと自分を返したい精神的・肉体的安全へと向かう欲求であると同時に、一度自身の存在を初期化してやり直したいという希死念慮でもある。
人類の生活においては、現在の自身を概念的死者としそこから再度生者の世界へと帰還する行為は、通過儀礼として多く行われてきた。 通過とは脱することだ。自身の無力に絶望した人類が通過を望むのは無理のない話である。この絶望には様々な種類があるだろう。 実際に僕が経験したところであれば、例えば体力気力の限界から来る努力量の少なさであったり、それに起因する自身の無能力であったり、本質的なやりたいことのなさによる慢性的な人生の無意味感であったりする。
これは社会生活によるものだろうか。相対性の中から生ずるものであり、俗的な承認欲求から解放されれば、この死へと向かう意志も無くなるのだろうか。

母親の体内とは周囲から隔絶された世界である。
周囲からの隔絶とは同時に外界の拒絶、自身にとって不要な存在の排除を示す。
安全地帯を確保するためには排除が不可欠だ。
排除の論理によって成り立つ世界には外乱が存在しないからストレスも存在しない。
母親の胎内には他者が存在しないから相対という概念が存在しない。これは限りなく死に近い状態であると言える。
希死念慮と胎内回帰願望は、少なくとも僕の中で構造としては同種である。
やり直したいという意志の有無の違いはあるかもしれない。胎内に永遠に留まることを望むか、そこから初期化された新たな生を望むかという差異は存在する可能性がある。
これは輪廻転生の死生観に多大な影響を受けている思考であろう。意志の有無によって転生の有無が決まるという保証はどこにもないし、意志を持って人間が生まれてきたなどと信じているわけでもないが、現在生きているという状態における願望としては存在しうるのだと。そう考えると、形而上には生きながら形而下での死をもたらそうとする通過儀礼は、初期化された新たな生を望む意志が、物質的な死後の世界への思考の放棄を越え、自身の存在を作り替えようとする思想によってもたらされたものだと言える。
とはいえ、あまりに何度も繰り返せば手段が目的化し、意味を失ってしまうだろう。
ここに気をつけて、見極めて死んで行きたい。

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泣き声の素材は以下からお借りしました

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